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東京高等裁判所 昭和62年(行ケ)109号 判決

原告

武田薬品工業株式会社

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和六一年補正審判第五〇〇一五号事件について昭和六二年四月二日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

主文同旨の判決

二  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第二請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和五三年五月二日、名称を「テトラペプチド誘導体」とする発明につき特許出願(同年特許願第五二九〇一号)をし、昭和五四年七月一七日手続補正書により実施例を補充した(以下「本件補正」という。)が、昭和六〇年一〇月一六日、補正却下の決定があつたので、昭和六一年一月二三日、これを不服として審判の請求をした。特許庁は、右請求を昭和六一年補正審判第五〇〇一五号事件として審理したうえ、昭和六二年四月二日、審判請求不成立の審決をした。

二  本件補正の内容

別紙(一)記載のとおり。

三  審決の理由の要点

1  原決定の理由は、本件補正はR2がD-スレオニン、D-ノルバリン、D-セリン、D-メチオニン又はD-フエニルアラニンの側鎖である化合物を得る実施例を追加するものであるが、かかる補正は、願書に最初に添附した明細書(甲第三号証の明細書、以下「当初明細書」という。)に記載された事項の範囲内のものとはいえず、明細書要旨を変更するものに相当するから、特許法五三条一項の規定により却下すべきであるというものである。

2  そこで、検討するに、

(一)当初明細書には、本願発明の化合物について、一般式(1)をもつて記載したうえ、基R2について、水素又はD-α-アミノ酸の側鎖を表す旨定義され(特許請求の範囲第一項・一頁五行ないし同頁下から二行)、その例として、D-ロイシン、D-アラニン、D-メチオニン、D-セリン、D-スレオニン、D-フエニルアラニン、D-α-アミノ酪酸、D-バリン、D-ノルバリン、D-ノルロイシン及びD-イソロイシンの側鎖が列記されている(八頁一三行ないし一八行)が、前記式(1)で表される化合物のうち、その取得、確認について当初明細書に具体的に既済された化合物は、R2がメチル基又はイソブチル基である化合物、すなわちD-アラニン又はD-ロイシンの側鎖である化合物(実施例1ないし14・二〇頁一八行ないし四九頁一五行)のみである。

(二)そして、本願発明は、当初明細書の記載からみて、静脈投与でも鎮痛作用を示す新規なテトラペプチド化合物を提供することを目的とするもきであり、このように有用な新規化合物を提供する発明にあつては、単に一般式をもつて化合物を表示し、基の具体例を列挙するのみではそこに包含される化合物のすべてについて技術的な開示があるとはいえず、取得方法、物性、有用性等が具体的に示されてはじめて技術的な開示があるといえるところ、当初明細書に取得、確認について具体的に記載された化合物は、前記したとおり、R2がD-アラニン又はD-ロイシンの側鎖である化合物のみであり、また、本件補正に係るR2がD-スレオニン、D-ノルバリン、D-セリン、D-メチオニン又はD-フエルアラニンの側鎖である化合物が、鎮痛作用を持つテトラペプチド化合物として、D-アラニン又はD-ロンシンの側鎖である化合物と同等であることが当業者に自明のこととも認められない。

(三)請求人(原告)は参考資料1(甲第七号証添附の参考資料1・一九七七年、日本薬学会醗酵の「フアルマシア」所載の論文「エンケフアリンおよび関連ペプチドの構造・活性相関について」)(以下「参考資料1」という。)及び参考資料2(同参考資料二・一九八一年、日本薬学会醗酵の「OHEMICAL & PHARMAIEUTICAL BULLETIN Vol.29 No.12」所載の論文「エレケフアリン類似体に関する合成研究一」)(以下「参考資料2」という。)を提出しているところ、参考資料1には、脳内投与により鎮痛作用を示すペンタペプチド化合物であるケフアリンにおいてアミノ酸単位を種々増減変更する技術が記載されており、N-末端から二番目のアミノ酸単位であるグリシンをD-アラニン、D-ロイシン、D-フエニルアラニン、D-バリン又はアラニンに置き換えたペンタペプチドが記載されているが、その作用効果は、まったくないものからエンケフアリンの一〇倍のものまで多様であり、これによると、アミノ酸配列を変更することは自明でないと解されるし、また、参考資料2は本願出願後に領布された雑誌であるから、その記載内容は、本願出願時の技術水準を検討する場合には参照することができないものである。

3  そうであれば、本件補正が当初明細書に記載された事項の範囲内のものということができないことは明らかであるから、これを却下した決定は妥当である。

四  審決を取り消すべき事由

審決の理由の要点1及び2の(一)は認める。2の(二)のうち、本願発明が静脈投与でも鎮痛作用を示す新規なテトラペプチド化合物を提供することを目的とすること、当初明細書に取得、確認について具体的に記載された化合物はR2がD-アラニン又はD-ロイシンの側鎖である化合物のみであることは認めるが、その余は争う。同(三)のうち、請求人が審判手続において参考資料1、2を提出したこと、参考資料1には脳内投与により鎮痛作用を示すペンタペプチド化合物であるエンケフアリンにおいてアミノ酸単位を種々増減変更する技術が記載されており、N-末端から二番目のアミノ酸単位であるグリシンをD-アラニン、D-ロイシン、D-フエニルアラニン、D-バリン又はアラニンに置き換えたペンタペプチドが記載されていること及び参考資料2が本願出願後に領布された雑誌であることは、認めるがその余は争う。3は争う。本件補正は当初明細書に記載された事項の範囲内でなされた適法な実施例の補充に該当する。しかるに、審決はこの点に関する認定判断を誤った。

1  本願発明(当初明細書の特許請求の範囲第一項記載の発明)の要旨及び本件補正について

(一)本願発明の要旨は「一般式

[式中、R1は水素又は低級アルキルを表す。R2は水素又はD-α-アミノ酸の側鎖を表す。R3は水素又は低級アルキルを表す。R4は水素、又はそれぞれ水酸基、アミノ基、低級アルコキシもしくはハロゲンで置換されていてもよい直鎖条もしくは分枝状の低級アルキル、低級アルケニルあるいは低級脂肪族アシルを表す。]

で表されるテトラペプチド誘導体及びその薬理的に許容される酸付加塩。」というにある。

(二)また、本件補正は前記二のとおり実施例15ないし22を補充したものであつて、右本願発明の一般式中の基R2がD-スレオニン(実施例16及び20)、D-ノルバリン(実施例15)、D-スセリン(実施例19)、D-メチオニン(実施例21)又はD-フエニルアラニン(実施例22)の側鎖である化合物についての製造例等を追加したもの(なお、実施例15及び17は基R2がD-アラニンの側鎖である化合物に関する補充である。)である。

1  審決の認定判断の誤り(取消事由)

審決は、当初明細書に記載された事項を不当に狭く認定した結果、本件補正が明細書の要旨を変更したものと判断したものであつて、誤りである。すなわち、

(一)(1) 本願発明は、審決指摘のとおり、静脈投与(皮下投与でも可)により鎮痛作用を示す新規なテトラペプチド化合物を提供することを目的とするものであるが、本願発明に係る前記一般式中、D-末端のヒドラジド基を除くテトラペプチド部分は、本願発明前公知の文献である参考資料1によつて明らかなように、従来から周知の化合物において知られた構造のものであり、また、そのN-末端から二番目のグリシン部分を交換する点が従来から本願発明に係る技術分野における周知慣用の手段にすぎないことも、参考資料1及び参考資料2(その三六三頁にH-Tyr-D-Ala-Gly-Phe-NAOH2OH2OH2OH3の引用文献として本願発明前の一九七七年の復権が引用されている点)並びに本訴において提出した甲第一一号証(特開昭五三-二五五三七号公報)第一二号証(特開昭五三-四〇七三六号公報)によつて明らかなところである。

したがつて、本願発明の化合物は、その基本骨格であるテトラペプチド部分を本願出願前周知の化合物と同様にするこれと構造類似の化合物(換言すれば、エンケフアリン関連の化合物)であり、その新規部分は、公知のテトラペプチドのC-末端を酸アミド誘導体から酸シドラジド誘導体に置換した点に存するものであつて、このような事情は、当然、本件補正に関する要旨変更の判断に当たつても斟酌されるべきである。

(2) また、D-スレニオン、D-ノルバリン、D-セリン、D-メチオニン又はD-フエニルアラニンはすべて、D-ロイシン、D-アラニンと同様、いずれもD-α-中性アミノ酸に属し、当初明細書にその名所の記載があつたものであつて、これらをN-末端から二番目のアミノ酸単位とした本件補正に係る化合物はすべて、当初明細書にその取得、確認について記載のあるN-末端から二番目のアミノ酸単位をD-ロイシン、D-アラニンとする化合物と構造の極めて類似した化合物である、その作用効果も、原告が本件審判の請求時に提出した甲第七号証(審判請求書に関する昭和六一年五月八日付手続補正書)一一頁の表(なお、同表の下から三段目に「Tyr」とあるのは「Thr」(スレニオン)の誤記である。」により明らかなように、右当初明細書にその取得、確認が具体的に記載された化合物と格別の差異がないことが明らかであるうえ、その製造も当初明細書の一一頁六行ないし一二頁八行に既済されたとおり、ペプチド合成の定法に従つて製造できるのである。

(3) 更に、α-中性アミノ酸のかさ高さ(側鎖が結合する炭素原子を中心とした該側鎖の基としての三次元的拡がり。本願発明でいえば基R2のかさ高さ)は、水素を側鎖とするグリシンが最小で、これにメチル基を側鎖とするアラニンが続き、イソプチル基を側鎖とするロイシンを最大とするもので、その他のα-中性アミノ酸は、右グリシン、アラニンとロイシンとの間にすべてが納まつてしまうものであることは技術常識に属する。また、甲第九号証(一九七六年、ACADEMIC PPRESS発行の「BIOCHEMICAL AND BIOOHYSICAL Research Communlcatione Vol.73 No.3」六三二頁ないし六三八日)及び第一〇号証(同書、一九七四年発行のVol.60 No.1の四〇六頁ないし413頁)からも明らかなとおり、生理活性を有するポリペプチドにおけるグリシン部分をD-α-アミノ酸で置き換えた場合にそのかさ高さが生理活性に与える影響は本願出願前から既に注目されていたところであり、右グリシン部分をかさの小さいD-α-アミノ酸であるD-アラニンに置き換えた場合、生理活性は増すが、グリシンやD-アラニンよりもかさの高いD-α-アミノ酸に置き換えた場合、生理活性はこれらのものより減少することが知られていた(ちなみに、本件補正は、甲第一〇号証に記載された、生理活性を有するポリベブチドにおいてC-末端を変化させた場合グリシン部分をかさ高なD-α-アミノ酸と交換しても生理活性が低下しないとの知見に着目してなされたものである。)。

右の事情を前提とすれば、本願発明においては、N-末端から二番目のアミノ酸単位を前記のとおりかさの小さいD-α-中性アミノ酸であるD-アラニンとした化合物の生理活性が大きいのは当然ながら、これを最もかさの大きいD-α-中性アミノ酸であるD-ロイシンとした化合物においても生理活性の低下がみられないのであるから、N-末端から二番目のアミノ酸単位を中間のかさ高さを有する本件補正に係るD-スレニオン、D-ノルバリン、D-セリン、D-メチオニン又はD-フエニルアラニンとする化合物においても、右D-アラニン、D-ロイシンとする化合物と同等程度の活性があると考えるのが当然である。そして、右の点から当然予測されたように、実際にも、これらの間の作用効果に格別の差異がないことは前記したとおりである。

(4) 以上(1)ないし(3)によれば、本件補正に係る化合物は、当初明細書に完成した発明として実質的に開示されていたものであることは明らかである。

(二)なお、被告は、原告が提出した書証について様々主張しているが、そのうち、参考資料1記載の薬理作用に基づく主張は、これがインビポ(生体に適用する試験)の前段階としてなされるインピトロ(生体組織のレセプターに対する結合性を測る試験)に基づくものにすぎず鎮痛活性を直接表すものでないことを看過している点で不当というべきであるし、その余の主張もすべて各書証の記載事項の誤認又は評価の誤りに基づく不当な主張であり、また、これに関連して被告が提出する乙号証もいずれも本件には妥当しないものである。

(三)そうであれば、本件補正に係る実施例15ないし22の化合物の補充が、当初明細書に記載された事項の範囲内でなされた適法なものであることは明らかというべく、これに反する審決の認定判断は誤りである。

第三請求の原因に対する認否及び被告の主張

一  請求の原因一ないし三は認める。同四のうち1は認め、2は争う(なお、本件補正に係る化合物がいずれも本願発明の一般式に抱合されるものであること、甲第七号証の一一頁の表の下から三段目に「Tyr」とあるのが「Thr」の誤記であり、同表によれば、本件補正に係る化合物がいずれも当初明細書に取得、確認について記載された化合物と格別の作用効果の差異がないことは認める。)

二  審決の認定判断は正当であって、原告主張のような違法の点はない。

1(一)アミノ酸がペプチド結合したペプチドないし蛋白質は天然にも極めて多く存在するが、これらを構成するアミノ酸は僅か十数個にすぎず、それらがペプチド結合する際の配列の仕方によつて極めて多くの種類と作用がもたらされるのであるから、ペプチドないし蛋白質において、各アミノ酸単位は、単なる置換基のようなものではなく、化合物の本質に関与する主要骨格そのものというべきであり、したがつて、アミノ酸配列を一部変更したペプチドないし蛋白質と本願発明のペプチドないし蛋白質は、一般的には化合物として同等とはいえない。

(二)もつとも、特定のペプチドないし蛋白質のアミノ酸配列の一分を別のアミノ酸に置き換えても同様に有用な性質ないし作用を示す化合物が得られることが目的である場合には別論であるが、本願発明の場合、そのような事実を認めることはできず、次のとおり、この点に関し原告が提出する書証もいずれもそのような事実を示すものではない。

まず、原告提出の書証によつても、鎮痛活性を有する有用なテトラペプチド化合物として本願出願前から知られていたと認め得るのは、N-末端から二番目がD-アラニンである化合物のみである。すなわち、原告提出の書証のうち鎮痛活性が関連するテトラペプチドについて記載されているのは、参考資料1、2及び甲第一一号証であるが、参考資料1には、鎮痛活性を有するペンタペプチドとして知られたエンケフアリンのアミノ酸配列の中からいずれか一つを削除してテトラペプチドにすると鎮痛活性が無くなるか又は極めて弱くなる旨記載され(九三三頁右欄二七行ないし三一行)、現に、その第一票に示された三個のテトラペプチド(いずれもN-末端から二番目はグリシン・物質番号3、4及び6)の活性はエンケフアリンを一とした場合〇ないし〇・〇二にすぎない。また、参考資料2に記載されたテトラペプチドはC-末端がアミド化された化合物である。そして、甲第一一号証のうち、取得、確認が具体的になされていると認められる化合物はN-末端から二番目がD-アラニンの化合物のみである(なお、新規で有用な化合物を提供する発明においては、その取得、確認の記載がなされているのでなければ、その化合物が開示されたものといえないことは審決で述べたとおりである。)。したがつて、前記のとおり、原告提出の書証によつては鎮痛活性を有する有用なテトラペプチド化合物として本願出願前から知られていたのはN-末端から二番目がD-アラニンである化合物のみであるといい得るのであり、また、そうである以上、原告主張のように、本願発明の化合物のテトラペプチド部分が公知の化合物において既に知られていた化合物であるということはできない。

次に、原告提出の参考資料1、甲第九号証及び第一二号証(特開昭五三-四〇七三六号公報)には、鎮痛活性が関連するペンタペプチドが記載されているが、前記のとおり、参考資料1にエンケフアリンのアミノ酸単位のいずれかを削除してテトラペプチドにすると活性が無くなるか又は著しく弱くなる旨記載されていることに照らし、ペンタペプチドとして知られたアミノ酸配列が直ちにテトラペプチドにも適用できるとはいえない。のみならず、同参考資料及び甲第九号証には、エンケフアリンにおいて、N-末端から二番目のアミノ酸をグリシンからD-アラニンに換えると作用は増強されるが、D-ロイシン、D-フエニルアラニン、D-バリンに換えると作用は著しく減弱される旨記載されていることからして、ペンタペプチドにおいて、N-末端から二番目のアミノ酸を変換した場合には必ずしも同様の鎮痛活性を有する有用な化合物が提供できるものではないものと解される。また、甲第一二号証においても、取得、確認が具体的になされていると認められるのはN-末端から二番目のアミノ酸単位をD-アラニン及びD-ロイシンにしたもののみである(なお、同号証に係る出願は、当初、N-末端から二番目のアミノ酸として種々のD-アミノ酸が定義されていたところ、乙第三号証から明らかなように、審査の結果、右二番目がD-アラニンのものだけに減縮されて公告されたという経緯があり、このことからしても、有用なペプチド化合物の発明において、取得、確認が具体的に記載されていない化合物については、一般的な開示があつても直ちに発明が成立しているとはいえないことが窺われる。)。したがつて、ペンタペプチドにおいて、N-末端から二番目のアミノ酸を置き換えても同様に有用な化合物が得られることが自明とはいえないことが明らかである。

なお、甲第一〇号証は、黄体形成刺激ホルモン分泌作用に係るもので、鎮痛作用に関する本願発明とは全く別異の技術であるから、論外である。

2  当初明細書にその取得、確認が具体的に記載された実施例の化合物と本件補正に係る化合物を比較すると、前者は、基R2がメチル基又はイソプチル基、すなわち、いずれも置換基を持たないアルキル基の化合物であるのに対し、後者は、水酸基(R2がD-セリン又はD-スレオニンの側鎖である場合)、メチルチオ基(R2がD-メチオニンの側鎖である場合)及びフエニル基(R2がフエニルアラニンの側鎖である場合)で置換されたアルキル基の化合物を抱合していることからして、むしろ、両者はその構造を著しく異にするというべきであり、また、このような置換基を持つ場合、反応性においてこれを持たない場合と同等ということもできない。

3  原告はα-中性アミノ酸のかさ高さに基づき続々主張するところ、D-ロイシンが原告主張のように最もかさの高いものであるかは知らないが、仮にそうであるとしても、そもそも、かさ高さと鎮痛作用との因果関係自体が明らかでない以上、当初明細書にR2がD-アラニンとD-ロイシンの側鎖である化合物が記載されているからといつて、かさ高さの点においてその中間にあるその余の化合物がこれらと同様に有用な化合物であることが自明であるとはいえない。

4  甲第七号証の一一頁の表によれば本件補正により補充された実施例の化合物がいずれも当初明細書に取得、確認が具体的に記載された実施例の化合物と効果の点で格別の際がないことは認めるが、問題は、補正に係る化合物が本願出願時の技術水準からみてそのようなものとして考え得るか否かの点にあるものであるから、右のように後に実験を行つた結果作用効果に差異がないことが判明したとしても、要旨変更の判断に影響を及ぼすものではない。

5  なお、当初明細書に取得、確認につき記載された化合物は基R2がD-アラニン又はD-ロイシンの側鎖である化合物のみであることは原告も認めるところ、右によれば、同明細書に記載された薬理実験例(一七頁一一行ないし二〇頁七行い)においても当然右各化合物を用いて実験を行つたものと解され、他には、前記本件補正に係る化合物がこれと同様の薬理作用を示すことを認め得る記載もない。

第四証拠関係

本件記録中の書証目録の記載を引用する。

理由

一  請求の原因一ないし三(特許庁における手続の経緯、本件補正の内容及び審決の理由要点)並びに本願発明の要旨が原告主張のとおりであることは当事者間に争いがない。

二1  本願発明が静脈投与によつても鎮痛作用を示す新規なテトラペプチド誘導体を提供することを目的とすることは当事者間に争いがなく、前記当事者間に争いのない本願発明の要旨及び成立に争いのない甲第三号証(本願発明に係る願書及び添附の明細書)によれば、本願発明は、一般式

[式中、R1は水素又は低級アルキルを表す。R2は水素又はD-α-アミノ酸の側鎖を表す。R3は水素又は低級アルキルを表す。R4は水素、又はそれぞれ水酸基、アミノ酸、低級アルコキシもしくはハロゲンで置換されていてもよい直鎖状もしくは分枝状の低級アルキル、低級アルケニルあるいは低級脂肪族アシルを表す。]で表されるテトラペプチド誘導体及びその薬理的に許容される酸付加塩であること、鎮痛作用を持つ既存のペプチド化合物、すなわち、豚の脳から分離されたエンケフアリンと呼ばれる二種のペンタペプチド(H-Tyr(チロシン)-Gly(グリシン)-Gly(グリシン)-Phe(フエニルアラニン)-Met(メチオニン)・OH、及びH-Tyr-Gly-Gly-Phe-Leu(ロイシン)・OH)は、脳内投与によつてモルフイン様作用を示すものの静脈投与では鎮痛作用を示さないという欠点があり、一方静脈投与によつても鎮痛作用を示すものとしてはβ-エンドルフインも存在したが、これは三一個ものアミノ酸残基からなるポリペプチドであるため製造及び医薬品としての大量供給が困難であつたこと(当初明細書三頁一八行ないし四頁一三行)、本願発明は、これらの先行技術を踏まえ、前記一般式で示されるテトラペプチド、ヒドラジド誘導体の化合物が、静脈投与(皮下投与でも可)でも充分な鎮痛効果を有するとともに、経済的に有利で、化合物として安定であるとの知見に基づいてなされたものであること(四頁一四行ないし二〇行)が認められる。

2  そして、成立に争いのない甲第一五、一 六号証の記載に照らせば、前記認定に係る本願発明の一般式中のテトラペプチド部分は、前記認定のR1ないしR3のいずれもが水素(H)である場合には、チロシン(Tyr)、グリシン(Gly)、グリシン(Gly)、フエニルアラニン(Phe)、のペプチド結合(H-Tyr-Gly-Gly-Phe-)であることが認められ、これは、前記エンケフアリンのテトラペプチド部分(H-Tyr-Gly-Gly-Phe-)と同一である。右によれば、本願発明のテトラペプチド部分と構造上差異がない場合があるから、その意味で、本願発明の特徴は、前記一般式において-のヒドラジドの部分に存するものといつて差支えなく、そうであれば、本願発明は、主として、鎮痛作用を有するペプチド化合物の分野における先行技術であるエンケフアリンを前提として、そのN-末端から五番目のメチオニン又はロイシンをヒドラジトで置換することにより、脳内直接投与によつてした効果を奏し得ない。エンケフアリンの欠点を解消しようとしたものと会することができる。

二  取消事由に対する判断

1  本件補正が、別紙(一)記載のとおりの内容のものであり、前記本願発明の一般式中の基R2がD-アラニン(実施例15及び17)、D-スレニオン(実施例16及び20)、D-ノルバリン(実施例18)、D-セリン(実施例19)、D-メチオニン(実施例21)又はD-フエニルアラニン(実施例22)の側鎖である化合物についての製造例等を追加したものであること、これらの追加に係る化合物がいずれも本願発明の一般式に包含されるものであること、当初明細書には、基R2として規定されたD-α-アミノ酸の側鎖の例として、D-ロイシン、D-アラニン、D-メチオニン、D-セリン、D-スレオニン、D-フエニルアラニン、D-ノルバリン等の側鎖があることが列記されていたこと、そのかち、当初明細書において、その取得、確認について具体的に記載されていたのはR2をD-ロイシン又はD-アラニンの側鎖とする化合物のみであつたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

2  そして、右当事者間に争いのない事実及び前掲甲第三号証によれば、当初明細書に実施例1ないし14として具体的に取得、確認が示された化合物及び本件補正に係る実施例15ないし22の化合物における前記本願発明の一般式中基R1ないしR4はそれぞれ別紙二のとおりであることが認められるところ、これにより、本件補正に係る化合物のうち、N-末端から二番目のアミノ酸単位をアラニンとする実施例15及び17を除く実施例について実施例1ないし14の化合物とその構成を対比すれば、実施例16の化合物は実施例5の化合物と、実施例18ないし22は実施例4の化合物と、実施例21の化合物は実施例9の化合物と、それぞれ、D-アミノ酸の側鎖であるR2が異なるのみであることが明らかであるあるから、これらの各対応する化合物自体は十分に構造の類似した化合物であるということができる。

3  また、成立に争いのない甲第九号によれば、鎮痛活性に関連する麻薬性ペプチド、すなわち、メチオニン・エンケフアリンの一連のD-アミノ酸置換類似体が固相法によつて合成されること、そのN-末端から二番目のグリシンをD-アミノ酸と置換すると活性の増加した類似体が得られるものと期待されることが、成立のない甲第七号証の参考資料1によれば、右参考資料には、エンケフアリン及びその同族体の構造とモルヒネ様活性との相関についての記載があり、メチオニン・エンケフアリンないしその同族体のN-末端から二番目のグリシンをD-アラニン、D-フエニルアラニン、D-ロイシン等に置換したものが記載したものが記載されていることが、それぞれ認められることに微すれば、エンケフアリン及びその関連化合物において第二番目のアミノ酸残基が各種のD-α-アミノ酸からなるものが公知であり、本願出願前から鎮痛作用を有する物質として言及される対象じあつたことが認められる。

4  しかして、本願発明は、前記(二)の認定に微し、公知のエンケフアリン及びそのN-末端から二番目のグリシンが他のD-α-アミノ酸で置換された同族体から派生したヒドラジド誘導体といえるものであるから、本願発明において、メチオニン又はD-フエルニアラニンの側鎖である化合物は、その鎮痛作用の程度はともかくとして、R2がD-アラニン又はD-ロイシンの側鎖である化合物と同様に鎮痛作用を示す化合物として自明のものであつたこと自体は明らかというべきである。

そして、本件補正に係る実施例15ないし22の化合物と当初明細書に記載された実施例1ないし14の化合物の作用効果に格別の差異がないものである(甲第七号書の一一頁の表)ことは当事者間に争いがない。

5  以上によれば、当初明細書に、本件補正により補充された実施例中、R2がD-スレオニン、D-ノルバリン、D-セリン、D-メチオニン又はD-フエニルアラニンの側鎖である化合物について取得、確認についての具体的な記載がなかつたとしても、これらの化合物はいずれも前記一般式に包含される化合物であつて、当初明細書に前記本願発明の一般式中の基R2を側鎖とするD-α-アミノ酸として、その名称が明記されていたものについて製造例等を補充したものにすぎず、かつ、当初明細書には、これらの化合物と構造の極めて類似した化合物(R2がD-アラニン、D-ロイシンの側鎖である化合物)の製造例等が記載されていたのであり、しかも、右化合物と本件補正に係る前記化合物との間の作用効果にも格別差異がない以上、これらの化合物は、実質的には、当初明細書に確認可能な物質として開示されていたものと認めるのが相当である。

6  もつとも、被告は、N-末端から二番目のD-α-アミノ酸を種々のものに置き換えても鎮痛作用の点で有用な化合物が得られることが自明であつたとはいえない等続々主張しているところ、たしかに、被告主張のように、参考資料1には、鎮痛活性を有するペンタペプチドとして知られたエンケフアリンのアミノ酸配列の中からいずれか一つを削除してテトラペプチドにすると鎮痛活性が無くなるか又は極めて弱くなる点の記載があり、また、同参考資料及び前掲甲第九号証には、エンケフアリンにおいて、N-末端から二番目のアミノ酸をグリシンからD-アラニンに換えると作用は増強されるが、D-ロイシン、D-フエニルアラニン等に換えると作用は著しく減弱される趣旨の記載があることが認められるが、他方、参考資料1には、「ただし、Met5及びLue5が他のアミノ酸に置換された物質については、原則としてメチオニン・エンケフアリンを規準物質として効力比を算出した。」(九三四頁の表1下二行ないし三行)Met5をアミドにすると活性が増強されるが・・・・PertらはGly2をD-Ale(D-Alaの誤記と会される。)で置換し、Met5をアミド化した同族体[29]がラツト脳室内注射により強い鎮痛作用を起こすことを報告している。」(九三五頁左欄三〇行ないし三四行)「Szekelyら・・・はTyr-D-Met-Gly―Phe-Pro(NH3)なる・・・同族体がマウスおよびラツトで強力な鎮痛作用を示すことを報告した」(同頁左欄四五行ないし右欄二行)との記載があることも認められ、これによれば、N-末端から二番目のGlyがD-アラニン以外のD-アミノ酸の場合でも五番目のMetをアミド化等することで強い鎮痛活性を示す場合もあり得ることが示唆されていることもまた明らかなところであるから、必ずしも右被告の主張のように断ずることはできないものであるし、少なくとも、エンケフアリン及びその関連化合物の技術分野において、N-末端から二番目のアミノ酸単位をD-アミノ酸の種々のものに換えたものについて鎮痛活性が論及されていた事実自体は右各証拠によつて十分に認め得るところである。

また、作用効果の自明性の点についても、前記のとおり本件補正に係る化合物と当初明細書に取得、確認が記載された化合物との作用効果に格別の差異のないこと自体は被告も認めるところであるところ、本願発明時の時点でみても、前掲参考資料資料及び甲第九号証にはN-末端から二番目をD-ロイシンとしたものの作用が著しく減弱される旨記載されているにもかかわさず、前掲甲第三号証からも明らかなように、本願発明においては、その場合でも効果が減弱しない点が示唆されていると認められるのであるから、N-末端から二番目をD-アラニン以外のD-α-アミノ酸に換えた場合にも同等の作用効果があるものとの予測がなし得なかつたものとはいえない。

更に、被告は、本件補正前後の化合物におけるR2の置換基の有無の点での差異を指摘して、両者の構成が著しく相違する等主張しているが、そのような差異は本願発明の化合物の化学構造全体との関連でみれば、一部にすぎないテトラペプチド部分を構成するアミノ酸基に関し、しかも同じD-α-アミノ酸に属するものの中での差異にすぎないものであり、また、被告指摘の点の差異が鎮痛活性等との関連で重大な差異であることを認めるに足りる証拠もないのであるから、右被告の主張は直ちにはこれを採用しがたいものというほかない。

そして、その余の被告の主張も、いずれも前記認定判断を左右するものではなく、また、他に前記認定判断をそくす覆すに足りる証拠もない。

5  そうであれば、審決が本件補正をもつて明細書の要旨を変更したものであるとした点は誤りというほかなく、右認定判断の誤りは審決の結論に影響を及ぼすものであることも明らかであるから、審決は違法として取り消されるべきである。

三  よつて、原告の本訴請求を正当として認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松野嘉貞 裁判官 船橋定之 裁判官 小野洋一)

〈以下省略〉

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